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『評価経済社会』 感想文

本の感想文を書いたので、こちらにもアップ。

 

岡田斗司夫の「評価経済社会」という本の感想です。

 

端的に言うと、

パラダイムシフトが起きていると評される最中、

資本主義の次にどんな社会が来るかを予測した本です。

 

評価経済社会・電子版プラス

評価経済社会・電子版プラス

 

 

ITを勉強したい、グローバルに出ていきたいと思う自分に、

それは必要か、なぜそうしたいのかを、

本質的に考えてみるいいきっかけになりました。 

 

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<内容のキーワード>

パラダイムシフト

・科学の未来予測に思想の変化が含まれていない

 →トフラー、堺屋

 →例えば堺:経済成長こそが正義。ある意味ヒューリスティックにかかっている。

  しかし、21世紀の若者は果たしてそれが豊かな人生と呼べるか懐疑的

・案外自分が変化していることは観測できない。

・ネットが進化して、自分の都合のいい情報、反論ばかり集めるようになる。

・進化のバラ色の部分だけで、暗黒面を表していない。

 

まず、この本を読んで、賛同できる点が1点、できない点が1点あった。

賛同できないのは、パラダイムシフトの末、資本主義から評価経済になるという点。

賛同できたのが、高度情報化社会において1つの価値観を貫くことは不可能という点。

科学は死んだ?

より豊かな生活を望んで、科学に絶大な希望を抱いてきた。

しかし、果たして本当に科学は人を幸福にしたのか。

僕は、こういった命題を、考えては頭を悩ませている。

とても便利な世の中になったけれど、せわしなく、時間に追われる日々。

日本は幸福度ランキングでもかなり下の順位。

 

とはいえ、文明レベルを下げるのは不可能なのは分かりきっている。

いくらブータンが幸せな国家でも、日本はその水準には落とせない。

インターネットや家電なしで生きるのは極めて難しいだろう。

 

果たして、僕たち若者は科学に期待しなくなったのか。

これについては興味があるか無いかだけに見える。

 

そもそも、科学不信という観点を持ち合わせていない人が多数。つまり興味がない。

「普通に暮らして結婚出来ればいいよ。がむしゃらに働いても仕方ない。」

というだけであって、科学への投資予算を削る議論などに、

傾聴する若者がそこまでいたようには思わない。

科学に期待しないから働かないという観点はずれている。

 

逆に僕は科学が面白いと思うし、どうなるのかがワクワクする。

僕のやってみたい。という気持ちは新しいものの可能性を追うことだ。

でなければ、わざわざ大手のNECを辞めて、ベンチャー企業に入ったりはしない。

大卒の採用市場を見ても、外資系企業は圧倒的人気だ。

外資の成長環境を求めると同時に、日系企業で飼殺され、市場価値が目減りすることを恐れている。

 

若者は金のために働くなんてナンセンスとは思っていない。

それぞれの「やってみたい」を叶えるのに大半はお金がかかる。

どちらかというと、働くのは金のためで、プライベートは充実したいという気持ちが強い。

金より、やり甲斐とは口では言っても、やはり金が欲しいのが本音と思う。

貧しさで行動が制限される人もいる。

金がなくても楽しみを見つける能力が高いという点には賛同できるが、

果たして本当に貧しい人の現状を筆者が分かっているかは疑問。



ITの進化予測をバカにする論調だったけれど、評価経済も予測の域を出てない気がしている。

新たなパラダイムで、モノ不足情報余りというのであれば、情報活用・IT産業が格好いいと言えるのでは?

評価経済は確かにある。

評価が金を生むのは間違いない。

無給でも、働きたいと思えるようなものはわずかながら有る。

OKWAVEの感謝経済や、中国が行っている信用度数値化も評価経済だと思う。

 

しかし、ボランティアやNGOが社会の中心になるとは想像し辛い。

金を得るための労働を、できるだけ面白いものにしたい気持ちがある。

どちらかが欠けてもダメなんだろう。

さらに、社会主義がうまく行かなかった理由を説明できない。

 

人口減による社会保障問題も同様、評価経済でうまくいくとも思えない。

人に干渉したがらない若者が、国家の代わりに福祉を築く未来は想像できない。

年金や介護保険など社会保障が破綻し、自己責任の時代になるだけだろう。



一方で賛同できる意見もある。

自分の考えがない、一貫性が無いのは、高度情報化社会において当然の結果。

これにはとても賛同する。

多数の解釈があり、専門性が増す中、その情報を正しく判断して意見することはとても難しいことだから。

一時期正しいと思っていたことが、すぐに陳腐化してしまう。

 

大学時代に京大の友達とこんな会話をしたのを覚えている。

「結局、日本市場では文系出身キャリアのほうが給料いいよな。」

「金融とかな。他業種でも営業、企画や事業推進を経て経営側に回っていくもんな。」

シンクタンクなんかもいいな」

当時は金の事ばかり考えていたようだ。

 

でも、いざ僕が社会に出てみると

社会保障は高い、歩合で稼いでも次年度の税金におびえる、IT化!、働き方改革!、

副業時代解禁!…このような情報が一気に入ってくる。

 

そうすると、一攫千金も危険だな。安定的に稼げる方がいい。

手に職つくITエンジニアって格好いいんじゃ…と思えてきてしまう。

元々科学が好きだし、自分もやってみたいという思いがわき始めた。

そしてITエンジニアになった人のキャリアや生き方、給料などの情報を仕入れて、

なりたい自分の正当化を強固にしていった。

 

「え、いままで文系キャリアの方が良いって言ってたじゃん?」

「一貫性のない奴だ。。。」

 

こんな感じで、一貫性のない奴の出来上がり。

筆者の意見に共感するほかないだろう。

 

これ以外にも一貫性を貫けなかった自分の例がある。

触れる環境、情報が増えるほど、自分の価値観も増える。

多重人格のようなもの。

だから一貫性を持つというのはある一方で自分の価値観も否定することになる。

僕も、小中学校、高校、バイト先、大学、職場、彼女、家族、合コン、パーティ、

ドイツ留学など様々なコミュニティに属し、それぞれの価値観に順応するよう演じてきた。

 

それらを踏まえていくと「自分はこう思う、ある一方でこのようにも思う」という

意見のいい方になる。

これもある意味、たくさんの解釈ができるような価値観を持ってしまったためだろう。




そして、根本的に自分の意見というものはあるのか?

この問いにはぐうの音もでない。

 

集合知、知識のクラウド化とでもいうべきか、自分の中で納得できる情報を自分の意見として蓄える。

自分の都合のいい情報ばかり集まるし、言いたいことをうまく表現してくれる人を探すこともできる。

これは本当に無自覚で、抗うのが大変なバイアスだ。

 

正直にいって、僕の意見もバイアスにまみれている。

基本的に資本主義の中で生きてきて、誰にでもチャンスがある平等性を憎んだことはない。

むしろ最高だと思っている。

チャンスをモノにできないのは怠慢だと思ってしまう。

その平等性こそが比較材料で全体の幸福度を下げていることは、頭では分かっている。

それでも可能性を否定したくない。

 

だから、僕はパラダイムシフトで評価経済が訪れない、

むしろ訪れて欲しくないと思ったから、賛同できなかった。

これがバイアスを含んだ僕の意見の本質だろう。



感想をまとめていて、たどり着いたこと。

メディア側に何らかの意図があって情報を流すのであれば、何を信じればいいのか。

一見正しくみえる統計情報も、発信元の見せ方、受信側のバイアス次第で180度変わってしまう。

若者が働きたくないでござるしているのか、外資でバリバリ働きたいのか。

確実に正確な統計情報というのは20代全員の意識調査をしなければ真実は分からない。

分からないことをひたすら悩むのは無益なこと。

結局、自分が「今何をやりたいか」にフォーカスすることが一番有益だ。

今は、「ITを学んでみたい」「手に職つけて世界に出てみたい」。

それだけ。